第6夜 〜 薔薇色の『静的ドラゴン論』 〜

( 2004/03/16 Up! )




やあ。薔薇の館へようこそ。
(ブランデー片手に、豪華なソファに腰掛けている)
すっかり春らしい陽気になって来たねぇ。
(花粉症でコンタクト装着出来ない為、瓶底メガネをかけている)
桜の花は日本人の心だねぇ。
(花粉症の為、鼻水が垂れている)
・・続きは、空気清浄機のある、隣の寝室で・・・。
(限界が来たらしい)




さて、冬好き&花粉症の私としては腹立たしい事ですが、
そろそろ春がやってくるようです。
麗らかな日差しに誘われて、、かどうかは分かりませんが、
ドラゴンが熱い今日この頃。

んだば一丁、ドラゴンで屁理屈コラムを!!
・・と、息巻いてはみたものの、、
そんな事は不可能なのだと、改めて知っただけなのでした。。
何故かって? 答えは簡単。
「ドラゴン」とは「感じる」モノだから、です。
「ドラゴン」とは何か?と聞かれれば、
「ドラゴン」です、と答えるしかありま温泉。
幾ら言葉を重ねても、表現出来る代物では御座いませぬ。
「ドラゴンを分かり」たいならば、「ドラゴンを感じる」しかない。
つまり、究極的な意味では「ドラゴンになる」しかない、って事です。
「ドラゴン」になれない者は、一生「ドラゴン」を知り得ないのです。
以上、ドラゴン論終わり!!

・・以上に尽きてしまうのですが、それじゃコラムにならん。
「熱くたぎるドラゴン!」とは別の切り口から攻めてみる事にしましょう。
「ドラゴン」成立の過程を追ってみれば、
「ドラゴンへの道」が開かれるかもしれません。

キーワードは、ブルース・リー先生の言葉、

"Be water, my friend."

直訳すれば「友よ、水になりなさい」って事ですな。
いや、ロデムみたいにドロドロに溶けるって事じゃないですぜ。。
これだけ聞いても、何のこっちゃ?って感じだと思いますので、
少々説明を加えましょう。
これは、リー先生がインタビューの中で言ったものと記憶しています。
お題は分かりませんが、自分の「武道論」的な話の中の一言なのかな。

「水は、コップの中に入ればコップの形になり、瓶の中に入れば瓶の形になる。
 さあ、友よ、水になりなさい」 

がフル引用です。

ああ「柔軟性」を持ちなさいって事か、とは何となく分かりますね。
確かにリー先生の創始した武道「ジークンドー」など、
ありとあらゆる格闘技を取り込んでしまっています。
「強くなる・勝つ」という目的の為には、どんな技でも吸収するぞ!
って「柔軟な姿勢(仮にStyleとします)」が現れてます。
しかし、早合点は禁物。
この言葉の理解はそれだけでは不十分なのです。

重要なのは「水」。何故「水」なのか?
コーラでもビールでも、畢竟同じ現象は起こるでしょうが、
「水」なのです。

考えてみれば、水とは不思議なモノで、
コップや瓶に入っている「水」は勿論の事、
空から降ってきても、地上の水たまりでも、
あるいは、一滴でも、バケツ一杯でも、琵琶湖でも、太平洋でも、
はたまた、富士山麓から湧き出ようが、下水道を流れていようが、
我々はそれを「水」と認識します。
琵琶湖いっぱいにコーラが溢れていても、
真の意味でそれを「コーラ」とは誰も認めないでしょう。
瓶に詰まって、あるいはコップに注がれて、
飲める状態にあるものだけが、我々にとって「コーラ」だからです。
つまり「水」は、例えそれが何処にあっても・どんな形になっても、
その本質を失わない。言い換えるならば、
「水」には、我々に「それが水だ」と思わせる絶対的な何かがある、
とも考えられます。

この理屈を人間に当てはめて考えてみます。
私がステージで演奏しているのを見たら、
「あ、紅一点だ」と、私を知っている人は認識してくれるでしょう。
しかし、例えば、私がホームレスばりのボロボロの格好でフラフラ歩いていたら、、
果たして「紅一点だ」と認識してもらえるでしょうか・・?
「水」が人々に「水」と思わせるほどの「主体性(仮にSoulとします)」
は斯様に強固で大きなモノなのです。

リー先生が言った「水になる」とは、
そこまでの意味が含まれている、と見るべきでしょう。
例え理想論であっても、それを求めて止まない、、
「ドラゴン」の宿命と言えるかもしれません。

さて、以上の様な観点から、リー先生の金言を解釈してみると、

「Soulがあれば、どんなStyleにもなれる。
 友よ、そうなろうではないか」

とも読めます。
それだけの(表面的でない)柔軟性を持てれば、ドエライ事です。
それを手に入れられたなら、人生の幅はビックリする程広がるでしょう。

しかし、今現在の自身の実状に当てはめて考える場合、
これを逆に読む事をオススメします。

「Soulの無い者に、Styleを変える資格はないのだ。
 さあ、友よ(そう友と呼べる人ならば)、Soulを獲得しなさい」

こちらの方が「ドキッ」としますね〜。
重点は「Style」ではなく「Soul」にあるのです。
この「Soul」が「Style」を許し、
やがては総体としての「ドラゴン」を産む土壌になると、
私は勝手に確信するのです!
その一言を言い終わった時のリー先生の自信に満ちた笑みを、
私は忘れないでしょう。

中間∴「ドラゴン」=「Soul」×「Style」

・・・さて、かなり無理矢理ですが
「ドラゴン」成立の過程・条件は解明されました。

さて、ここで実生活に即して考える為に「Style」を拡大解釈しちゃいます。
髪型を変える、服装を変える、趣味を変える、、等々、
それらも「Style」の一部と考えますと、
誰でも「Style」を持っている、と言えます。
ただ、そこに「Soul」はあるでしょうか?
もし「Soul」=0としたら、いかに「Style」はあったとしても、
中間∴に従って「ドラゴン」=0、
つまり「ドラゴンなし」になってしまいます。

「Soul」無き「Style」など、偽物の極み!
「ドラゴン」の風上にも置けません。
・・彼方に日常に「Soul」はありますか?

・・・そして、話は最初に戻るのです。

「ドラゴンを分かり」たいならば、「ドラゴンを感じる」しかない。
もし、彼方が不幸にも、まだ「Soul」を見出していないとしたら、
そこで「ドラゴンへの道」は終わってしまうのか・・・??
いえいえ、ご安心を。何故ならば、
それは彼方がまだ「彼方のSoul」に気付いていないだけ、だからです。

「水は、コップ入れると〜」みたいな話は、禅関係の本などにも見られます。
究極の実感として、やはり一脈通ずるモノがあるのでしょうか。
仏教思想の中に「如来蔵」と言う考え方があると聞きます。
簡単に言えば「『仏』になれる可能性は、誰でも初めから持っている」
って事だそうです。
これは「ドラゴン」にも言えるのではないでしょうか。
つまり「『ドラゴン』になれる可能性は、誰でも初めから持っている」。
格闘技を習っていなくとも、運動が苦手な人でも、
いやさ、女だろうと男だろうと、老人だろうと、3歳の幼児だろうと、
「ドラゴンの可能性=Soul」は誰の心の中にもあるのです。

そういう意味では、誰でも「ドラゴン」の後継者の資格があるのです。

∴さあ、ビデオ屋に走って「燃えよ!ドラゴン」を借りてきましょう。
(え? 他のがいいって? 
んでは千の顔氏のコラムを熟読して選びなさい)
そして「彼方のSoul」を探す旅に出るのです。

何故なら、きっと彼方も
『ドラゴンの末裔』なのですから。


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